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アロエッテの歌⑤

2011.12.11
 第7章「夜に泣く夜鳴鳥(ナイチンゲール)」というサブタイトルの通り最後はエポニーヌが涙する展開で終わっています。オリジナルストーリーとはいえ栄功の階段を駆け上がっただけに目の前でコゼットとマリユスが仲良く並んで座っている姿を見せつけられる(それでも気持ちを抑えて舞台をこなさなければならない。そのまんま道化じゃないですか…。)という終わり方には同情したのを覚えています。という訳で記憶を頼りに5巻の感想です。

 コゼット(アロエッテ)…「そうすれば少しでも多くの貧しい子が救われる。」

と徹夜で刺繍をし、それを売ったお金でパンに替えて出血大サービスの施しをしているコゼットでしたが今日はともかくその人達の明日の食事はどうなるのか、その後寝る間も惜しんで刺繍する姿が見られなくなった事からもこの子の博愛精神は結局自己満足の域を出ないのか(社会が変わらない限り問題の根本は解決しない事項ではあるのだけれども…。)と微妙に思えたものです。どんどん「ただ守られるだけのお姫様」化してきたと同時に頭のボリュームが凄いな!(あれにストレートパーマをかければ普通のロン毛になるのではないだろうか?)と実感した主人公でした…ゲフッ!

 アデル…「私達の刺繍がパンに変わるなんて…あまりの事に何が何だか分かりません。」

アデルというのは原作者ユゴーの娘の名前でオリジナルキャラです。修道院生活を終えた彼女は激しい恋に落ち、それがきっかけで精神を病み一生を精神病院で過ごしたのだそうです。彼女の激しさを目覚めさせたのは一体どんな出来事だったのか?と犬木先生なりにアデルの「理解を超えた現実」との触れ合いを描いていますが精神を病むほど弱い心の持ち主が激しい気性だとは私には到底思えず(ヤワだからこそ病んでしまったのではないでしょうか?)カバーコメントを読んで「…?」と思ってしまったものでした。あまりのショックに寝込んでしまったのか、これ以降出番も無く別れもちゃんとできないままコゼットが去ってしまった展開も急で色々驚いてしまったものです…ゲフッ!

 ジノルマン…ジノルマン「お前の執心の夜鳴鳥をわしにとられて悔しいか?」
マリユス「夜鳴鳥なんて僕は知りませんよ。どうぞおじい様のお好きなように。」

「我が家の恥を紹介しよう。」と人前(サロン)で晒し物にし彼に関わるものを横取りすること(見せびらかしの復讐)でしか愛情を表現できない、例えて言うなら牛乳をしみこませた雑巾を投げつけるような真似をすることでしか相手を振り向かせられないような好意の示し方(相手にとってはいい迷惑)にさすがのマリユスもそれがこの人の愛情表現だと理解しながらも呆れと軽蔑を抱くようになってきたようです。私に言わせれば文句を言いながらもすねをかじって生活させて貰っているマリユスもいい性格でどっちもどっちに見えるのですが自分で自分の姿が見えていないのが当事者の現実のようでした。という訳でマリユスが自分を自覚して成長するのはもう少し先です。

 エポニーヌ…ティナルディエ「お前がこんな思いができるのもパパとママがお前をこさえて産んでやったおかげだろうが!」

そういう理屈ですか…と13にしかならない子供に養って貰っている肩身の狭さはどこへやら却って増長しているティナルディエ夫妻に呆れるのを通り越して感心してしまったものです。(さすが強欲夫妻。)歌姫として成功したものの人々は「見世物としての彼女」を笑っているだけで愛しいマリユスの視線さえもコゼットに奪われます。注目されている反面、誰も本当に彼女を必要とはしていない(親でさえ彼女が稼ぐ金を食い物にしているだけで大事に扱うようになったわけではない。)という現実にエポニーヌがイライラする理由が分かる気がしました。(それで真面目に練習しろと言われてもねえ…。ピエールだって言ってみればエポニーヌのおかげで歌を上演できている利用している人間の一人な訳で…。)巻の最期、笑い物になりながら本当に見て欲しい人間にさえマトモに見て貰えない彼女の独り舞台が可哀想で仕方なく同情からますます好きになってしまったものでした。

 余談…リアルタイムにコミックスを買っていた私は何の苦労もしなかったのですが後からこの作品を知った人は絶版の上にネット販売でも品薄の為に高値がついた(特に6、7巻は売れなかったのかより品薄で高額なのだとか。)この本を集めるのに相当苦労したそうです。買い手の側にさえ無情を与える(ああ…無情。)凄い作品だなと改めて感じ入ったものでした…ゲフッ!
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アロエッテの歌④

2011.12.10
 個人的にはこの「アロエッテの歌」は大好きなのですが絵を見ただけで拒絶反応を示す読者は多数いるようで…(個性的で私は全然「有り」なんですが。)カテゴリ的にはホラーでもない(連載誌はホラーだったけれども。)この作品は犬木先生作品の中でもかなり「異質」になってしまうらしく現在は絶版・古本屋にも置いていない稀少な本となり果ててしまっているようです。それでも懲りずに感想は書いて行きます。という訳で第4巻です。第6章「新しい鳥の巣」というサブタイトルから察せられる通り舞台は修道院に移りコゼット達は平和~な生活に入ります。

 コゼット(アロエッテ)…「いつの間に私の手もこんなに白くなっていたんだろう?」

無事ティナルディエ夫妻の家から逃れた後は生活も安定し恋も叶い幸せの階段を昇るだけの彼女。幸福になって良かった反面今後の彼女からは見所が無くなってしまうのも確かで(修道院で大人しく暮らすだけ、6月暴動中も安全な家の中で祈っているだけで全く行動しない女性なので…それが当時の理想のレディではあったのでしょうがあまりに男に都合の良すぎる女性のような…。)修道院を抜け出して行動している犬木版は行動力がある(一生懸命主人公として動かしている)反面どこかズレているとも感じてしまったものでした。来て早々に沈黙の業(罰)を与えられているし、このコゼットが立派なレディになる日は遠そうです…ゲフッ!

 マリユス…「この人形を譲って貰えませんか?」

関係の無い赤の他人であっても所詮この世は金だという事でお金で話はついていましたが…。(つけるなよ見知らぬ人形の為に!)男のくせに人形を愛でて挙句にキスまでする姿は真面目なだけに一層不気味で読みながらドン引きしてしまったものです。映画版でも描かれていた「運命の一目惚れ」(出会い)まで全く接点のない2人を何とかこじつけようという犬木先生の努力は買いますが、こんな男の不気味な言動をクローズアップするよりはいっそ出会いまで関わりの無い方がまだ幸せではないかとまで感じてしまったほどです。小説版でもストーカー気質のある男なだけにハマりすぎて納得したものの、大人編で登場するまでいっそ出てこなくても良かったキャラクターだと改めて思ってしまったものでした…ゲフッ!

 ジュリエット・ドルーエ…「どうせ私は金持ちの男達の慰み者よ。」

ジュリエット・ドルーエはコゼットのモデルとなった女性と言われており、この作品では現在人気を博している歌姫というオリジナルキャラクターとして登場しています。(それにしたって男の慰み者として金を得ているという設定は酷いと思いますが…。)オリキャラ・ジュリエットはコゼットが拾った赤子の母親に職を斡旋した(母子が充分に暮らせるように金を工面した。)という後日談もあり彼女の付き人として仕事を与えて貰った事に感謝した母親は火事の際子供を放って衣装を守ったというエピソードも描かれていました。「美談」のように描かれていましたが私にはさすが1度は子供を捨てた母親だ(子供の命よりも仕事の方を守るんですか!)とあんまり感動はできなかったり…ゲフッ!ジュリエットはそこまで自分の為に尽くしてくれたと歌姫辞めて田舎に行く決意までしていますが、そんなに美しい行動には正直見えないんですが…ゴフッ!(衣装も子供も同時に抱えて守るという選択はしないのね、お母さん…という感じで…。)

 エポニーヌ…ピエール「劇場は広いのよ。もっとお腹から出る声を使う事ね。」

だからといって腹を1発殴ればそれで腹筋がつくほど人体は単純ではなかったと思うのですが…。(生卵食べた後にお腹を殴られたら普通は吐くだろう。)歌謡作家(シャンソニエ)のピエールに歌の上手さを見出されるも観客から相手にされない様に「とんだ見込み違いだったかな?」「私の歌姫はそんな醜い顔で泣いたりはしなかった。」とイヤミの連発を喰らいながら(それにしても何故おネエ言葉なのか、ピエール?)成長していくエポニーヌ。13にもならない小娘を「大人の歌姫」のように人気を博そうという計画自体に無理があるだろうという常識的なツッコミは2人には届きません。しかし5巻では見事彼女の資質は花開き歌姫として本当に成功してしまうという意外な展開が拝めます。エポニーヌ好きの私としては嬉しいオリジナル展開でした。

アロエッテの歌③

2011.12.09
 第4章「一かけらのパン」第5章「クリスマスの精霊」というサブタイトルからファンティーヌのご臨終~コゼットがクリスマスの夜にジャン・ヴァルジャンに迎えられるまでの内容だろうと推測しておぼろげな記憶を頼りに感想を書いて行こうと思います。ファンティーヌに対してえらい辛口になってしまったものですが時代背景を考えても「恵まれていた状況全てを自分でおじゃんにしてしまった(頭の)可哀想な女性」(手切れ金も貰い最初はちゃんとした所に就職もできていたのに倹約のできないこの人の生活態度からコゼットの悲劇は始まった。)というイメージがどうしてもぬぐえなかったので…何をどう解釈しても褒め言葉は浮かびませんでした…ゲフッ!

 ファンティーヌ…トロミエス「ねぇブロンド。お前には金色に輝く髪も珊瑚の歯もあるから花嫁衣装はいらないね。」

かつてそう言って恋人が愛でてくれたもの全てを引き換えにしてお金を作った彼女ですが(それにしてもこのセリフ「お前に花嫁衣装を贈って結婚する気は無いからそこの所よろしくね。」という三行半に聞こえるのは私だけ?)「こうなったのも全ては私から仕事(高額の給料)を奪ったマドレーヌのせい。」と逆恨みするのは間違っていると思うのですが…。この人が苦労しているのはティナルディエ夫妻が無理な金せびりをしているせいでありそもそもはそんな人達に娘を預けた自業自得であって「給料(金)をくれるはずのマドレーヌ氏が仕事(金)をくれないせい。」というのは逆恨みを通り越した責任逃れのような気がして苦労の割には同情できない女性でした…ゲフッ!

 ジャン・ヴァルジャン…ファンティーヌ「市長なのに私から仕事を奪った!」

トラブルから助けてくれたのに(そのトラブルも自分の歯の無い口を見せ物にしてお金をせびった挙句の自業自得であって…楽して金儲けはできないっていい加減に学んで下さいよ、ファンティーヌさん。)助けてくれた相手を罵倒して唾を吐きかけたファンティーヌに性格の悪さを感じて一気に嫌悪感が募ったものでした。やむにやまれず売春婦に身を落とした女性だって今まさに彼女の周りに沢山いる(生活の為に身をやつしたというのは別に彼女だけに起こった特別な悲劇ではない。)訳で「自分ばかり酷い目に合うのはマドレーヌのせい!」と何もかもを他人のせいにするのはいくら精神が錯乱していたとはいえ酷い思考回路だと思えてこんな女性を助けるジャンに心の広さを感じたものでした。本当に酷い目に合っていたのは娘のコゼットの方だったでしょうに…ね。

 コゼット(アロエッテ)…ファンティーヌ「泣かないでね、コゼット。泣かないでね。」

これだけの虐待を受けて「泣くな。」というのは酷過ぎると思いますが…。(せめて泣くこと位は許してあげて下さいよ…。)彼女に振りかかる虐待に他人の顔をして「これも子供を置き捨てた罪深い母親(ファンティーヌ)のせいなのです。」としたり顔で説教していた牧師様に最初は嫌悪感を抱いていたうちの妹が「この人は嫌いだけど言っている事は『その通り』だよね…。」(そもそもファンティーヌがティナルディエ家に子供を押し付けなければコゼットの悲劇は起きなかった。)と納得していたのが懐かしく思い出されます。子供にとって1番の幸せは自分を思ってくれる親と暮らせることで生活の質ではないことにファンティーヌが最後まで気づけなかったことが本当に残念でした。親なら子供にとって何が幸福なのかもっとちゃんと考えて欲しかったです…。(そして何よりもまず浪費癖を治しておくべきでしたよ、ファンティーヌさん!)

 エポニーヌ…良家の子女「何よ、あの子。服装も下品だけれど歌い方も下品じゃない。」

単純に「歌が上手い」だけでは聖歌隊には入れない名誉ある場所なだけに生まれ育ちが物を言う(所詮この世はコネなのだ。)という事を村の牧師様はご存じなかったようです。(確かに聖歌隊にいるのは良家の子女ばかりで村娘や浮浪児にも門戸が開かれていたという話は聞かないしね…。)おかげで大金をかけてパリに行ってまで恥をかいたエポニーヌも引きずられて徒歩で行く羽目になったコゼットもいい迷惑を被ってしまいました。適当な事を言わないで下さい、牧師様。

アロエッテの歌②

2011.12.08
 第3章「なかないひばり」第4章「一かけらのパン」というサブタイトルからして多分話はこの辺りだろうという推測(たしかファンティーヌのロマンス回想は早目に描かれたはずで、2巻にまで本来の主人公であるジャン・ヴァルジャンが出てこないという悲劇も無いだろう…多分。)の中での感想です。間違っていたらごめんなさい(大丈夫だよ、このブログの訪問者は極端に少ないから…ゲフッ!)という事で今回も昔読んだ記憶頼りに語っていきます。

 トロミエス…ファンティーヌ「シンデレラを夢見てたわけじゃない…。」

つまり良家の子息であるトロミエス(コゼットの父親)の家のお嫁さんとして迎えられなくても、彼といられれば貧乏暮らしでもかまわなかったと言っていますがトロミエスが家も親も捨てて字も読めない無学な娘の為に人生を投げ出してくれるなんてそれこそあり得ない話でそれはそれで図々しい願いだと感じてしまった私でした…。小説版曰くファンティーヌは「妻が夫にするように身を任せていた」そうですが本当の夫婦であっても教会によってセックスをしていい日は限られているはずで(それが厳密に守られていたかどうかはともかくバレた時に問題にはなったでしょうね。ましてや未婚の女性の性交渉など言語道断という時代背景も伺えます。)結婚もしていないのに肉体関係があるからと夫婦気取りしていたのもやっぱりあつかましいように思えてあんまり共感はできなかったものです。コゼットの事に関してもちゃんと手切れ金はくれたのだから高価な服の数々なんて買わずにちゃんと倹約していたらもっと一緒にいられたのではと思えてならなかったり…ゲフッ!ともあれコゼットが父親似でなくて良かったとビジュアルを見て安心したものでした…ゴフッ!

 ファンティーヌ…「コゼットを引き取ろうとお金を貯めようとしているのだけれど…。」

家具とかつい良い物を買っちゃって中々お金が貯まらないのよね~(「お給料はマドレーヌ工場の半分でいいんです。」=「半分の金で充分生活は成り立つんです。」)とパリのお針子時代の浪費癖が抜け切れずにいつになってもコゼットを引き取れないダメ母親でした。(ちなみにその家具は家賃代わりに真っ先に差し押さえられました。)コゼットを思って同じ名前の花(ユーフラジー)を買っていたという「美談」も草花なんかを身代わりにしないで本物のコゼットの為に1円でも多く金をためるのが先だろ!?と思えて全く感動できなかったものです。(「病気の子供」に寝巻きでなく健康な子供が着る普段着であるスカートを送るのもどうなのか…ズレた母親だよなあ…。)クビになったことをきっかけに「ここを出て新しい町でやり直そう。」と再度、家賃を踏み倒して(またか。)出ていこうとしていますが何度違う場所に行こうが生活態度や考え方を改めない限り彼女が娘と再会できる日は永遠に来ないだろうなあ、と改めて性格の悪さにげんなりしてしまったものでした…ゲフッ!

 ジャン・ヴァルジャン…「こんな所もう1日だって我慢できるものか!」

刑期がもうすぐ終わるという時になってわざわざ脱獄しなくても…と小説版ではげんなりしただけでしたがこの作品を読んでそれでも姉の子供の不幸を目の当たりにして刑務所で何もできずに唯々諾々と生活しているのが耐えられなくなったのだと初めてジャンの脱獄の理由に共感できたものでした。(結局何回やっても捕まって大人しく出所を待つ方が早かったというオチは待っていたけれどね…ゲフッ!)その後人助けをした事で身分不明でもあの街で暮らす事を許されついには市長にまで出世した彼の人生はファンティーヌとの出会いをきっかけに少しずつ狂い始めることになります…。

 エポニーヌ…「私の心はみんな私の眼の中に。ほんに可愛いお前のあんよが見えるから。」

と、まるで母親が幼いわが子をいとおしむかのように様に訳されているこの歌は小説版によると正確には「スカートの裾から女の形のいい脚が見えるので俺の目はもうギンギンです。」というニュアンスの身も蓋も無い内容だったので犬木先生の超訳の素晴らしさに思わず拍手したものでした。池に落ちたのを助けて貰ったのに自分は見捨てて逃げてしまったというのはオリジナルエピソードでエポニーヌの性格が悪いというよりそこまでしてエポニーヌを悪役にしたいか!?という作者の強引な方向性が見えて「…。」と思ったものです。歌のように親に可愛がられるエポニーヌと虐待されるコゼットと違いは母親が子供を手放すか手放さなかったかにあったのであってそもそもの要因は親にあった(虐待の要因は子供にあったのではない)と思うのですが…。

アロエッテの歌①

2011.12.07
 表紙は小説版でもおなじみの箒で掃除するコゼットの絵です。服はボロボロでやせ細り大人用の箒はその体には大き過ぎる…彼女がいかに酷い仕打ちを受けているかを物語っている有名な絵です。2013年のレ・ミゼラブル映画化で思わずテンションが上がってしまい本格長編漫画であるこの作品を思い返して…現在手元にないので記憶とネット情報(あらすじ)頼りに感想を書いてみました。という訳で第1章「やむを得ずと戦士は言いぬ」編です。(映画の少し前コゼットとファンティーヌが別れた時のシーンです。)

 ファンティーヌ…「娘を裸で置いて行く母親なんているものですか!」

そう言う割には高価な服の数々を抱きしめて手放すまでにえらく時間が掛かっていましたが…ゲフッ!(ティナルディエ夫婦がツッコミを入れなかったらそのまま持って行くつもりだったでしょ、あなた?)「夫はパリで死んだのです。」(でも父親がいない以上、私は結婚もせずにふしだらな事をして子供を産んだ女と誤解されて就職先が限られてしまう。)と娘を手離す理由を正当化している彼女ですが、これは完全なるウソ。相手の男が元気に生きている以上隠し子(コゼット)という自分の不貞の生きた証拠を連れ歩くのは都合が悪いという自分の勝手が理由です。預かったティナルディエ夫妻も強欲な人間ですが物語の開始1ページ目から家賃を踏み倒し子供を手離す(そして預かってくれる人にさえ本当のことを言わずに嘘をつく)この人もこの人で小狡い生き方をしているよな~と共感できなかったものでした。そんな理由で手放される子供が哀れと言えるでしょうね。

 マルグリッド…「ファンティーヌはあたしの友達なんです。雇って下さいますわよね。」

この作品ではファンティーヌの幼馴染にして友人として登場していますが映画版(2013年度版)で彼女がクビになる際誰も庇おうとしなかった(本来庇うべき「友人」が一人も現れない…どころか全員が一致団結して「こんな人と一緒に仕事するなんて嫌!今すぐクビにして!」と迫っている。)事からも分かるとおりファンティーヌには友達なんて存在しませんマルグリッドはファンティーヌが住んでいる宿屋の女主人(おばあさん)であり「こんなに貧乏なのに、この上ティナルディエさんにお金なんて払えないわ。」とグチ要員として使われた女性でした。そんなこと言われたっておばあちゃんは困ったでしょうに…ね。

 コゼット(アロエッテ)…「こんな私の話こそ、いつか物語になるのではないかと思うのです。」

いや主人公はジャン・ヴァルジャンだから…(犬木先生、主人公認識を間違えてますよ~。)と完全に主人公になりきって話を進めていくコゼットにツッコミを入れてしまったものです。という訳で(少なくとも原典では)主人公はジャン・ヴァルジャンなのに記念すべき第1巻で1ページも出てこないというまさかの展開で話は進んでいきます。「虐待された子供達の『現実』から目を逸らさない。」という犬木先生のスタンスは理解出来ましたがそれと主人公を置き替えてしまうことはまた別物だと思うのですが…。

 エポニーヌ…「このバカにゃんにゃん!お仕置き!お仕置き!」

…と、漫画版では完全なる悪役に染まってしまった彼女。でもこれは両親のコゼットへの仕打ちを真似しているだけで幼子である彼女にはそもそも事の善悪や物の道理なんて分かっていない差別を教えてしまっている親が悪いと言えそうです。(言ってしまえばそもそも他人の家族の元に勢いでコゼットを預けてしまったファンティーヌの判断がそもそも間違っていたというか原因はそこにあったというか…。)最初の1日は仲良く遊べた事からこの子だって教えれば他の子を仲間に入れる優しさも慈しみも発揮できるのですが…(幼児教育って本当に大切ですよね…。)色々な意味で親に問題がありました。自分の都合の為に子供を他人の元に置き捨てるファンティーヌと他人は金ヅルとしてしか扱わないティナルディエ夫妻とこの作品は問題のある大人が多いなあと感じ入ったものです。
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